ロマンス

グレ

ロマンス・グレー

ロマンス・グレーとは中年~古希男性の白髪混じりを指す。

完全な白髪ではなくあくまで半分以上は黒髪がありつつも白髪が目立つ状態であり、日本では白髪混じりの紳士を指すことが多い。

考案者はソニー設立者の一人盛田昭夫。 ソニーアメリカ社長時代30代で白髪混じりとなり悩んでいた所、アメリカ人の友人から「こちらではローマンティック・グレーといっておしゃれで憧れなん だ」と言われて気を良くし、帰国中にこのエピソードを「ロマンスグレー」と言い換えて話した。友人の中に小説家の飯沢匡がいて「それは面白い話だ」とオー ル讀物に同名の小説を連載し広まった。 当時の流行語となったので友人たちに盛田は「おれが本家だぞ」と笑っていたという。このエピソードは盛田が1977年名古屋市公会堂で行われた母校愛知県立旭丘高校創立100周年記念講演で高校生を前に話した内容である。

最初にロマンス・グレーという言葉が登場したのは作家の飯沢匡の同名小説(昭和29年発刊)の中で採り上げた和製英語からだという。で一般的に定着したきっかけは1955年のアメリカ映画「旅情」で主演したロッサノ・ブラッツィのロマンス・グレーで女性の人気に火が付き、以後主に経済力も包容力もある魅力的な白髪混じりの男性を指すようになったという。

盛田昭夫

盛田 昭夫(もりた あきお、1921年(大正10年)1月26日 - 1999年(平成11年)10月3日)は、日本の技術者、実業家。井深大と共に、ソニー創業者の一人。1992年(平成4年)、名誉大英帝国勲章を受勲。

井深大と共にソニーを世界企業に育て上げ、井深の技術的発想を実現すると共にソニーの発展を第一として活動、技術者出身ながら営業の第一線にあり、トランジスタラジオ、ウォークマン等を世界に売り込んだ。

また、あまり知られてはいないが、盛田の最大の能力は、資金調達にこそ見られる。松下などに比べ、その規模で、はるかに劣る当時のソニーが、技術開発の資金を調達することは、並大抵の努力では出来なかったことは想像に難くない。しかし、盛田は見事にそれをやりぬき、トリニトロンの商品化を実現する。

私人としては、社交性に富み、非常に親しみやすい、と言われる反面、十数代続く造り酒屋の跡取りとして、厳格な一家の家長であったと言われている。ただし、子息に自己の思考を押し付けたり、特定の学校への進学等を指図する事はなかったという。

ソニー創業期の社員の給与は、盛田の実家の酒屋(盛田)から出ていたという逸話がある。それほど創業期は資金面において苦しかった模様である。また、銭形平次の原作者である野村胡堂(レコード評論家「野村あらえびす」としても有名)より出資を受けている。

「日本は福祉国家ではない。」が持論で大きな政府に否定的な立場であったとされる。

1989年(平成元年)に政治家の石原慎太郎と『「NO」と言える日本──新日米関係の方策』を発表しミリオンセラーとなった。同著では、対米関係の見直しを直言するなど、論客としても知られたが、派手な言動は人により評価が分かれ、共に日米経済人会議の議長に擬された、経団連副会長の佐波正一(東芝)と好対照と視る向きもある。建築家の岡田新一とは、次男が岡田の娘と結婚したため、姻戚関係にあった。

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経歴

愛知県名古屋市(盛田家の出自は常滑だが、盛田自身は名古屋出身である)に盛田久左衛門・収子の長男として生まれる。生家は、代々続いた造り酒屋で父・久左衛門は盛田家第14代当主。母・収子は、元大垣共立銀行頭取戸田鋭之助の娘であり、元仙台市長・早川智寛の姪、会社再建の神様といわれた早川種三の従兄弟にあたる。また、敷島製パン創業家とは親戚、三省堂創業家・亀井家とも姻戚関係にある。

愛知県第一師範学校附属小学校(現・愛知教育大学附属名古屋小学校)、旧制愛知県第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)、第八高等学校(現・名古屋大学)、大阪帝国大学理学部物理学科卒。

太平洋戦争中、海軍技術中尉時代に戦時科学技術研究会で井深大と知り合う。

終戦後、1946年(昭和21年)に井深大らとソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立し、取締役に就任。

ロマンスグレーといえば

児玉 清

児玉 清(こだま きよし、1934年1月1日 - 2011年5月16日)は、日本の俳優、タレント、司会者、作家。本名、北川 清(きたがわ きよし)。出生名及び旧芸名、小玉 清(こだま きよし)。

東京市滝野川区(現・東京都北区)出身。児玉清事務所代表。

小学生の頃、群馬県・四万温泉に集団疎開した経験を持つ。東京都立工芸高等学校を経て、一浪して学習院大学文学部ドイツ文学科入学後、演劇部に入部。当初は道具係だったが、上背があるということで無理矢理舞台に上がらされたという。その後、1年先輩でフランス文学科の篠沢秀夫(現・学習院大学名誉教授)に見出され、篠沢が企画していた仏語劇『ブリタニキュス』(ラシーヌ作)の主役に抜擢される。フランス語はまったく知らなかったが、見事に演じ切り高い評価を得た。とはいえ、児玉は本来は役者志望ではなく、大学卒業後は学者になるため、大学院進学を目指していた。だが、学部卒業式の当日、母の急死により就職先を探さねばならなくなる。

しかし時季は4月目前、就職先が決まらず結局、知人が手を回して応募してくれていた東宝映画第13期ニューフェイス(新人俳優の募集)の面接試験に臨み、合格した。試験当日の朝は1時間前に急に思い立ち、世田谷区岡本の自宅そばにあった停留所にたまたま東宝撮影所行きのバスが停車、すかさず飛び乗り向かったこともあり、水着持参であることも知らず水着審査で下着のパンツ一枚で参加し審査員から奇異の目にさらされるも、質問にウィットあふれる回答を返し、逆に歓心を買った、という逸話がある。この逸話は『トリビアの泉』や著書『負けるのは美しく』(集英社)で明かされている。

東宝専属となったもののいわゆるエキストラとしてセリフのない通行人役が長らく続く。1959年封切「鉄腕投手 稲尾物語」に通行人役として出演、それまで撮影所の掲示板に貼り出される仕出しの仕事を無為にこなす日々を送っていたが、この作品は児玉にとって不本意だった俳優業に興味が沸き始める転機となった。それは当作品のロケで博多に 滞在していたある夜、宿舎で年下のスター俳優に誘われ立ち寄った喫茶店で、サインを求めてきたウエイトレスが児玉も人気俳優だと思い込み色紙を差し出した ところ、年下のスター俳優が「この人は雑魚だからサインを貰っても意味ないよ!」と言ったことに一念発起、「10年間は俳優として頑張ろう!」と心に誓う。その後は次第にセリフのある役柄を得るようになってはいたが、相変わらず端役が続いていた。

しかし、1961年4月封切の『別れていきるときも』で司葉子の初恋の相手役に抜擢されたことをきっかけに、頭角を現していく。黒澤明監督作『悪い奴ほどよく眠る』 に出演した際は、「とにかく目立とう」と必要以上に大げさな演技やフレームインを繰り返し、激怒した黒澤にいじめ抜かれる。友人にそそのかされた児玉は 「世界のクロサワ」を殴ることを決意するまでに至ったが、なんとか踏みとどまり、実行には移さずに出番を終える。のちに黒澤が自分のことを陰で「あの血気 盛んさを10年持ち続ければものになる」と評価していたことを聞き、腰が砕けたと語っている。

1964年8月、東宝専属の中堅女優だった北川町子と結婚。まもなく彼女が女優を辞めたため、会社ばかりかベテラン女優の賀原夏子からも残念がられ、彼女が復帰する際は知らせてほしいと言われめげる。結局、1967年に東宝を退社してフリーとなり、テレビドラマに活動の場を移す。水前寺清子主演の『ありがとう』で一躍人気を得て、以後ホームドラマなどで活躍する。しかし、テレビドラマも機器の向上と演出方法の変化によりカット割りが多くなり、通しでの演技ができなくなったことや、時代と共にホームドラマの制作も減少の一途を辿ったために、徐々に仕事を減らすようになった。1975年に朝日放送のクイズ番組『パネルクイズ アタック25』の司会者となり、36年にわたり司会を行った(詳細は後述)。

1990年代から本業だったテレビドラマの仕事に消極的だったが、2001年のドラマ『HERO』の出演依頼を断った際に、療養中の娘から説得され一転して引き受けたという。2002年、娘は当時4歳の息子を残し、胃癌により36歳で亡くなった。この頃より俳優としての出演も増え、若い世代からも人気を得るようになった。一方、同年12月にニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』出演が好評だったことから、2003年6月から『テレフォン人生相談』のパーソナリティを担当するようになった。児玉の実体験を交えて悩みに回答するなど、リスナーからも親しまれていた。

2010年には19年ぶりのNHK大河ドラマとなる『龍馬伝』に出演し、主人公・坂本龍馬の父・八平を演じ、これが遺作となる。

2011年4月、肝機能障害により緊急入院、テレビ・ラジオ全番組の出演を全て休業していた。自身活動復帰を目指し療養に専念していたが、同年5月16日12時28分、胃癌のため東京都中央区の聖路加国際病院で 死去。77歳没。なお同年2月下旬から体調不良を訴え都内の病院にて検査をした処、胃癌が発見された。3月下旬より検査入院した際には肝臓への癌転移も発覚し、既に手術不可能な状態だったという。その後5月のゴールデンウィークを過ぎてから容態が急変し、5月16日に息を引き取った。

なお、最後の仕事は、2011年3月23日に収録されたNHK BSプレミアムPR用映像(後述)。テレビ出演は同年4月30日放送の『ワーズハウスへようこそ』(日本テレビ)が最後となった。

通夜は5月20日、葬儀・告別式は5月21日に護国寺(東京都文京区)で営まれ、多くの芸能・放送関係者が弔問に訪れた。法名は「修讀院釋清優(しゅうとくいんしゃくしょうゆう)」。遺体は、新宿区の落合斎場で荼毘に付された。

没後の2011年5月27日には、放送文化基金賞の第37回特別賞授与が発表された。

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